非線形数理工学を武器に,脳科学という荒野を行く

保坂 亮介

私は埼玉県川口市の独立行政法人科学技術振興機構の研究員として大学で脳の研究をしています.みなさんは脳研究と聞いて,どんな学問か,何となくでも想像することができるでしょうか.任天堂の「脳を鍛える大人のDSトレーニング」が発売されたくらいから,世間にも広く脳研究が知られるようになりました.それ以前は,脳研究って人工知能のこと?みたいな感じにとらえている人がほとんどでした.この脳科学の認知拡大の背景には,実は脳科学自身の大きな発展があります.

脳科学はこの10年で目覚ましい発展を遂げました.記憶の物理的基盤が解明され,iPS細胞の出現でアルツハイマー病や四肢麻痺の克服が視野に入ってきました.さらに今後20年で脳活動による義肢制御が実用化されるでしょうし,さらに20年で脳とインターネットが接続されるかもしれません.SFだけのものと思われていた攻殻機動隊やマトリックスの世界観が現実となる日も今や遠くはありません.私が職業として研究者を選んだ理由は複数ありますが,この目覚ましい脳科学の発展を間近で見続けたいと思ったのも一つの大きな理由でした.

私が大学に入学した1996年はちょうど就職氷河期の始まりとされる年です.もともと生物に興味があり,薬学部への進学を考えた時期もありましたが,就職しやすさを優先し,かなり早い時期から情報系進学を決めていました.こうして入学した埼玉大学 工学部 情報システム工学科での学生生活を謳歌していたのですが,研究室選びの時期になってみると,情報システム工学科にもかかわらず,脳の研究をしている研究室があるではありませんか.もともと興味のあった生物系のことが勉強でき,それはそれは楽しい一年間でした.あとで知りましたが,脳を情報系の学科で研究することは,計算論的神経科学や理論神経科学といってとてもポピュラーなことのです.

脳はとても面白い研究対象でしたが,製薬会社から内定をいただいていたため,大学院には進まずに就職しました.しかし,脳を勉強したいという気持ちは就職後も日に日に強くなっていきました.そして迷った末,上司と相談の上,会社を辞めることを決意しました.大学院進学先として,卒業研究時の研究室を受験することを希望しましたが,当時の指導教官であった吉澤教授の定年が近い等の理由から,新任で赴任された池口先生を紹介していただきました.池口先生は神経細胞の電気生理実験の経験もあり,脳科学にも造詣が深いのです.こうして2001年4月から修士課程の学生として池口研究室に所属し,再度,研究生活をスタートさせました.

脳の神経細胞膜には興奮という電気的な現象があり,それが脳の情報処理・情報伝達の基本となっています.大学院では,この一個の神経細胞の電気的現象を研究することにしました.しかし,情報システム工学科には生理実験の施設はありません.そこで,生の神経細胞を用いるのではなく,神経細胞を数理を使ってモデル化し,コンピュータシミュレーションで研究することにしました.数理というのは,応用数学や物理数学と言われる数学で,学問対象としての数学ではなく,自然現象を記述・研究するために用いる道具的数学のことです.主に,微分方程式,確率過程,統計などを用いました.もちろん,こういう数学が得意だったわけではなく,池口研究室で研究しながら勉強していきました.

シミュレーションで研究を行おうとすると,どうしてもプログラミングが必要となります.生理実験であれば,研究対象が生物として用意されているので,それらを解剖したり,薬物を投与したり,実験条件を整えたりしてデータを収集できますが,シミュレーションの場合,その研究対象自身をまずコンピュータ上に実装しなくてはいけません.逆をいえば,モデル化とプログラムができれば,どんな研究対象もコンピュータ上に実現できるので,とても有利とも言えます.

はじめはWindowsとVisual Cを使って研究をしていましたが,プログラム量が増えるに従って,不便さが目立つようになってきました.個人でシミュレーション研究をする場合,グラフィカルなユーザインターフェイス(GUI)はあまり必要でありません.そこで,研究環境をUNIXに移行しました.UNIXではGUIはあまりきれいに作れませんが,迅速なプログラミングにはもってこいでした.池口研究室にはUNIXのノウハウが詰まっていたので,とても役に立ちました.MacがOSを大幅に変更し,UNIXベースのOS Xとなってからは,私自身の計算機環境をMacに移行しました.移行当初は,Appleから発売されたばかりのiBookを使いましたが,今ではそれがMacBook Proに進化しました.4月にはさらにMacBook Airに進化する予定です.池口研究室では現在,Mac OS X Server を用いた快適な研究環境が提供されていますが,研究室の方針を先取りしていたことは自慢できます!

博士課程を修了するまでに理論神経科学の論文を5編書くことができました.それらは英語で世界に向けて発表しましたので,今でも国内外からコンタクトがあります.メーラーを開いて海外から英語のメールが届いていると,最前線で研究していることが実感でき,ちょっとうれしくなります.

博士課程修了後は,池口先生の御紹介で,池口先生の恩師である合原一幸先生が主宰されている科学技術振興機構の研究プロジェクトに研究員として就職し,東京大学生産技術研究所で研究しています.また,神経科学をやるからには生体の脳も知らなくてはいけないということで,東北大学医学部に赴き,生理データの収集・解析を行っています.

研究を職業とする上で最も大切なことは「unique」な人になることです.つまり,他の人には簡単にまねのできない自分だけの武器を持つということです.私の武器は,池口研究室で習得した「非線形数理工学」と,東大・東北大で習得した「電気生理学」です.それぞれを習得した人は大勢いますが,どちらも習得している研究者は多くありません.博士号取得後4年目に入ろうとする今は,これらを融合した研究で新たなブレークスルーを目指しています.

私は研究対象として脳科学を選びましたが,研究対象は人それぞれでいいと思います.各人の興味に従って正直に選ぶことが大切です.これまでの池口研究室の卒業生を眺めてみても,画像処理,植物のモデル,信号処理,宅急便の配送計画,株価の解析と様々です.大切なことはどんな武器でどのように立ち向かうかです.池口研究室で入手できる「非線形数理工学」は強力な武器です.ぜひ修士課程までの3年間,博士課程までの6年間でこの強力な武器を身につけ,あなたの目指す荒野に大きな足跡を残して欲しいと思います.

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